私はいわゆる革製品の職人です。
仕事について説明する機会があったりすると、「手に職をもっているってすごいですね〜」と言ってもらえることがあります。
ただ、やっている本人としてはどこかこそばゆく、そしてじつは非力感を抱くこともあったりするんです。
たとえば革製品が、ばん!と置かれていて、これ私が作ったんですよね〜って言う場合。
それってなんだかすべて自分の力で仕上げたんだぜという自負が見え隠れしているような気もします。。
はたして、そう自信満々に言えるものなんでしょうか。
まず牛革だったら牛を育てる人、その革を鞣して私たちが使い易い、使いたくなる状態に加工する人、そして革の加工地が遠隔地ならばそれを運送する人、その革を切ったり貼ったり縫ったりするための包丁やボンドやミシンなどの道工具を製造する会社、電気を供給してくれる会社、そしてこうして宣伝するためのサイバー空間を整備してくれる人。
大雑把に言ってもこれだけの関係者がいて、細かく見ていけばもっともっとたくさんの人たちが関わっていて、それぞれがいろいろ高度に組み合わさって最終的に(ここでは)革製品へと結実します。
あるいは、作りたくて作っているように思えて、じつはみんなこれが欲しいんじゃないかな?というような欲望の(勝手な!)先取りで私が製造「させられてる」ともいえるわけです。
というふうに考えると革製品ができたとしても私が関わっているのってほんの一部だよなーと思ってしまうのです。
先日、革屋さんにある革を発注したら、「その商材は在庫限りで廃盤になるんですよ」、という連絡をもらいました。
いくら製造する腕があっても、そこに関係する業界が正常に機能してても、素材がないのであれば作れなくなってしまいます。
もちろん別の種類の革を用いて作ればいいだけなんですが、この表情はこの革にしか出せないということもあってなかなかせつない話です。
たとえばお気に入りの飲食店があったとしましょう。
が、近々閉店してしまうということになったとします。
あなたはもっとたくさん通っておけばよかったと後悔します。。
発展的な閉店ではないのなら理由は想像できそうです。
駅から遠く不便だった。味はよかったが値段が高い。スタッフが少ないのでいろいろと不便だ…、とかとか。
今回の廃盤になる革についてもさまざまな理由はあったのでしょう。
私はと言えば、価格が高かったためそう頻繁に注文できるものではありませんでした。
しかしながらいい部位はとても素晴らしい表情をした抜群の商材でした。
ただ、使えない箇所も多く廃棄せざるをえない無駄な部分が多い。
そういう商材でもありました。
そうなってくると出来上がった商品にはそうした無駄な部分を廃棄したとしても成り立つような価格設定にしないといけません。
多くの人にとっては値段が高いから買うのではなく、やっぱり価格が安いほうが好まれます。
そうなるとあんまり使い勝手の良い革とはいえないので、商材としてのポジションは危うくなります。
こういった淘汰は今に始まったことではなく昔から繰り返し起こってきたのだと思います。
ただ、革を鞣すにはタンナー(革を鞣す工場)ごとにさまざまなレシピが考えられていて、このままこの商材のためのレシピは埋もれていってしまうのかと思うと悲しくなってしまいます。
じつは今度大丸札幌店さんでの催事で新商品のロールペンケースを販売する予定なんですが、それにぴったりの革だったんです。
売り切れてしまえばこの革を用いたロールペンケースはもうおしまい。
残念ながら別の革をまた探さないといけません。

「ファストファッション」ということが言われはじめてもう久しいですが、まだ十分人気のようです。
私も嫌いではありませんし、否定するわけでもありません。
ただそれ一辺倒になるのはちょっと寂しい。
ある洋服ブランドのデザイナーが昔新聞のインタビューで語っていました。
ファストファッションを成立させるシステムは、「どこかで誰かが泣いている」というようなことだったと記憶しています。
効率よく製造を進めてはやく安く消費者のもとへ届けるということは、実現できればそれはもちろんすばらしいことだと思います。
製造業としてそれは目指すべき一つのゴールです。
ただ、そこを熱心にめざすあまり、私たちの製造(だけに限った問題ではありませんが)にまつわる業界に何らかの無理強いをしてしまうのなら、それはやはり一度立ち止まらないといけないのかもしれません。
そしてはやく安く、ということが最強の価値観のように人々に浸透してしまうのも残念なことです。
もうちょっと廻り道のような、一見無駄のような、でもそこからいろいろなものが垣間見える瞬間を愛でるような雰囲気が醸成される、そんな時代になるといいんですけど。